最近は、比較的コツコツと更新しています。そうです。暇なんです。バビロンに滞在しいろんな方とお会いしていますが、ずっと出ずっぱりではなく空いている時間の方が多いです。その合間にこうして書き記しているだけですが、実を言うと、書くことは案外嫌いではない。
私のことを中途半端にご存知の方は、明らかに疑いの眼差しで一瞥しますが、本来趣味の欄には「読書」とオフィシャルでも公言している私にとって、文章を書くということは割と楽しかったりするものです。もちろん外で遊ぶのも好きですが、実は根っからのインドア派なんです。
ただの面倒くさがりという説も浮上しておりますが、そこは否定も肯定もしません。なんせ昔は、読書中めんどくさくて飯・風呂・トイレすら行かず、ずっと部屋にこもっていた時もあります。ハマれば一気呵成に読む方が楽しいので、自ずとそうなりますよね。途中で思わず寝落ちした時なんか、目覚めとともに継続して読書を続けていた記憶もございます。
が昨今、キリの良いところで休憩を挟む余裕を覚え、もっと上手に読書と付き合っている感じです。そうして読むことが好きなおじさんは、いつしか書く楽しみも覚えた次第です。若かりし頃のように偏らず、バランスのとれたライフスタイルを信条としていますので、これを拝読されてる傳さんグルーピーの方々も、私共々日々の生活を楽しんで参りましょう。
んな感じで海沿いに居住すると、朝の起床時には窓の外を見て、それからの行動を決定します。やはり海の状況、即ち自然。でその後の動きが決まりますね。波あれば波乗り、なければ天気、気分、状況に合わせフレキシブルに自分で選べる自由は、最高の贅沢でしょう。
朝一から、海へ戻ると清らかな気分になり、こうしてパソコンへ向かうと何やら書く事が浮かぶ気がするのは、気のせいでしょうか?はい。恐らく私は、海洋生物の末裔です。ですから、海に入るではなく「戻る」と表現させていただいております。この表現方法も、一過性の気のせいですが。
本日は森戸海岸沖までパドルし、海中に浮かぶ名島(菜島)の鳥居越しから富士山を拝んできました。残念ながら微か山頂には薄く雲が掛かっていましたが、外気よりも海水の方がまだ温かい初秋の朝は、森羅万象を身体全体で感じると、全てが優しくクリアーな状態を憶い起こすのに最適です。裕次郎灯台はまた次回の楽しみとして、残しております。
地元にいる時は、海まで行くのに小一時間ほど掛かっていたので、もっぱら公園を歩いていたのですが、歩き始めて早3年を過ぎた頃ですか。そろそろ次の段階にいく必要性を感じていた所です。身体がそう求めているような気もするし、「歩く」という運動に拘り過ぎてるのではないかと疑問に思った所もあります。
実際これまで、どんな環境でどうやって歩くことが効率的であり、無駄のない動きとして最適なのか。そう考えこれまで身体と運動について自分なりに実践を重ねてきました。それはやがて良い状態の身体として、心と密接に関係すると感じていたからです。
しかし歩き方や環境・身体機能の改善に向かうのは、あくまで私自身の「方法論」であって、そこまで重要ではないと感じるようになりました。考察的な方法論とは、あくまで路でしかないのではないか?最も重要なことは、その先にある気がします。
私はどこに向かって歩くのか。