2019、最後の戯言

齢を重ねるごとに自分自身の物語は上書きされ、これまでの人生がぐっと凝縮され、積み重なってくる。それまでの経験を上手に活用することで、新たなる人生という物語を創造していく必要があるのではないか。全てを潔く認めて往生し、新たなる自分へと挑戦する。それにはまず、自分の全てと向き合うことが重要であろう。

私自身すでに人生の折り返し地点を通過したと感じており、今更ながら改めて、時間は有限であると認識しなければまずい気がしていた。そんな時間軸を過ごしながら、古い自分の価値観を崩すためにと模索するこの一年だった様な気がする。

なんて珍しく何やら難しいコトを考えるふりをしております。まぁ、年末ということで、飽きもしない独り言を書き連ねてみよう。

解放や手放すという言葉の響きはあまり好きではなく、どちらかというと「崩す」と言う方が私の性格的には合っている気がする。しかし、最も重要なのは「認める」ことではないかと、最終最後にふと感じた2019年。それにはまず、自分自身の状態としっかりと向き合うことが重要であり、そこで起きている状態を手放そうとか捨て去ろう、崩してしまおうなんて考えるのは、ちょっと違うんじゃないかと思ったわけだ。

ヒトは皆人生の中で、思いがけないアクシデントや積み重なるストレス、無理矢理もたらされた事によるトラウマ等、いろんな傷が知らずのうちに身体内に刻み込まれているのであろう。だがそれらは全て、自分の経験によって得たもの。たとえ望んでいなくともそれは十人十色、皆同様に必ず通る道であろう。それこそが宿命でもあり、自分史と言う名の歴史でもあるんじゃないか。私は個人的に、運命は変えることが可能だが、宿命とは生まれ持った定めであると考える。

それらの傷を手放す、捨て去るとは己の人生そのものを(一部であろうと)否定することになりはしないか?私が今この記事を書いているということは、生きている証拠であり今尚目下、人生継続中である。そこに少しでも自分自身を否定するということがあると、この先又、新たなる傷を負う事もあるだろう人生で、そんな状況時に不安を感じるのではないか?と思うわけだ。

もう一度ロルフィングを受けに行く?何か新しいコトを探す?どちらも結構だろうが、抜本的解決にはなっておらず堂々巡りになりはしないか?結果としてそうなるのかもしれないが、やはり心意気は重要で、運命とは自分自身で創り上げるものだと考える私は、正面から向き合い認める以外に路はないと考える。さてはて、いかがなものだろうか。いつもの如く私の独り言なので、皆さんが同調する必要は一切ないが、、。

そういった傷や不安、所謂ネガティブ要素から出てきた知覚症状・状態を「雑音」だと表現すると、そこにロルファーとして、重力の音「静寂」で満たされる空間へと誘導する。その空間とは、母性としての森羅万象とでも表現するしか私には言葉がないが、その状況を創り上げ誘導してあげる事が、私の生業だと考えているのである。

ただし、そこでそれらの雑音が聞こえるのはあなた自身。これは誰にも手が出せないし届かない。その雑音がどんなものか、そのヒト自身にしか聞こえない。でもすでに過去の出来事として過ぎているのだから、ありのままの今を認めることが重要な鍵。だってあなたは今そこに存在しているのだから。

そのヒトの記憶にすら残っていないような、本当に小さなこともあろう。だがそれは、そのヒトが生きてきた歴史の中に存在するものだ。突然降って湧いて起こった出来事であろうと、望まぬことであろうとあなたの身体が記憶している。それを認め歩みだす鍵を握るのは、その身体を持つあなたの心意気であろう。私に出来ることは、そこに明かりを灯し、道筋に寄り添うのみである。

今年最後の戯言。また来年も、皆様よろしくお願いいたします。それではよいお年を。