本日は、前々からちょっと疑問に思っていたことがあり、その疑問が突如解けた気がしたお話です。為にはなりませんが、暇つぶしにはなるかと思います。
基本的に海人としてこれまで生活していたのですが、ある時不意に山にも興味が出ました。スペインのガリシアに行った時、海から眺める緑がなぜか心地良く感じられたのがきっかけです。余談ですが、私のお友達曰く、アイルランドの緑も素晴らしいようで、近いうちに又行きたいと考えているところです。ガリシアの写真は海しかないので、アイルランド乗っけときます。
その後いつものごとく独学で調べ物をしているうちに、海を作り出すのは「山」という結論に至り、現在もその路線で納得しているわけです。まぁこの際だから、海も山もひっくるめて「自然とは素晴らしい」の一言でよろしいでしょう。ここからが本題です。
よく「母なる海」やら「母なる大地」「母なる自然」英語でも Mother of Nature と言われますが、そこには「母」しか出てきません。「父」は、一体どこにいるのかを、ずっと疑問に思っていた次第です。倫に悖る行為を犯し、神々より永久追放されてしまったのか、はたまた破門絶縁の上、他銀河へと所払いの沙汰でもいただいているのでしょうか。これまでの功績により、なんとか母性のみでこの現世界の時代は成り立っていけているのでしょうか。所謂「片親でも子は育つ」というやつですね。
生物学的考え方が根底に根ざしているせいか、母からだけでは全ては生まれてこないと考えておりました。まぁ実際には、父母じゃなくて中国思想からくる陰陽でも結構ですがね。それでは今言われているもの全てをひっくるめ「母なる自然」にしたとしましょう。これを陽とすると、陰とは一体なんなのでしょうか。
物事に二面性はあると常々考えておりましたが、一体それが何なのか自分でも不可思議でした。これらの言語で形容された裏側を、自分なりに納得したかったわけです。んで結局何に行き着いたかと言うと、現象界と潜象界です。だからと言ってカタカムナがどうのと言うわけではありませんし、オカルトや精神世界にのめり込むわけではありませんので、ご心配なく。
傳さん的適当な解釈で行くと、要するに見えるものと見えざるものみたいな感じですかね。これは人間の視覚じゃ無理なら文明の利器に頼り、ある程度までは確認できるのでしょうが、それ以上はどうしようもない。でも無いことにはできないと言うことです。光の波長やら音の波動、動物には見えるのか感じるのかできる種もいるようですね。
現代科学が物質科学になっている歴史的背景には、現代科学の枠組みを作ったルネ・デカルトが、自然を「意識の世界」と「物質の世界」に分け、科学としては「物質の世界」だけを研究する学問にしてしまった事が、一つの原因のようです。その後デカルトに続く研究者たちが、科学の研究対象領域を物質の世界だけに限定してしまったのですね。そのため現代科学は、意識の世界でもある潜象界を無視した科学から成り立っています。
もう一つは、現代科学は測定手段の限界から、潜象(多次元)世界を殆ど検知出来ないことでしょう。現代における最高の装置で検知できる最小の大きさは、10のマイナス18乗cmだそうです。一方潜象(多次元)世界と呼ばれる世界は、およそ10のマイナス80乗cm以下の超微粒子で構成された世界であるようで、そのため現代科学では殆ど検知出来ない世界です。検知出来ないものは、研究しようにも研究対象に出来ませんね。残念。
実際解剖学においても、筋膜なんて今更大々的に発表すると世の中大変なことになるとして、何気に抑えて公表しているところもあるようで、なんとなく納得できる話ではないでしょうか。その辺の曖昧さを理解さえしていれば、オカルトだの迷信だのとキワモノ扱いもできないと思いますが、どうやら人間という生物は白黒はっきりさせたいのか、俺らに不可能はないとばかり解答を求めてしまいがちのようです。
研究すらできない状態であれば、もう手の出しようもないので推測やら過去の経験則に頼るしかないわけですが、私は所詮世の中なんてそんなもんだと解釈していますので、ようやく疑問が解けたと一安心です。まぁこれも、私自身の経験則やら偏屈的思考回路から導き出したモノなので、潜象界の仕組みまではご説明できませんが、ちょっと前に考えていた「モノのリアルさ」なんかも自分では納得いける感じです。
あえて言うなれば「在る」になるのかな。日本語というか漢字は何気に素晴らしい。という訳で、潜象界の存在を父にしちゃいました。