とても興味湧くコラムだったので、まんまパクリました。耳を澄ます 俳人 黛まどか
この頃、鶯の声で目がさめる。雨上がりの朝などは、さえずりまで潤っていていっそう美しい。いつしか全身を「耳」に集中して、次の声を待っている。その僅かな合間に、鶯をめぐる思い出を辿る。
<古池や蛙飛び込む水のおと 松尾芭蕉>古色蒼然とした池に、一匹の蛙が音を立てて飛び込んだ。水紋とともに広がる静けさ。芭蕉が詠んだのは”音”よりもむしろその後の”静けさ”ではなかったか。「鳴く蛙」取り合わせには「山吹」という伝統を破って詠んだ渾身の一句。その静けさの豊穣は、”耳を澄ます”者にしか享受できない。
「日本の音楽や舞踏では、、、言葉と言葉、音と音の間にあるものこそ最も重要なのであって、それは単なる空白ではない。逆に言葉や音は、その空白を彩る額ぶちにすぎない」(渡辺保著『身体は幻』)
情報過多の現代、私たちは溢れる映像や音に、目や耳を奪われ過ぎていないか。
視覚障害のある人は、心の耳を澄ますという。樵が木の声を聴き、農民が大地の声を聴くように、実体の背後にあるものに、音と音の余白に、もっと心の”耳を澄ます”べきではないだろうか。
『万葉集』には挽歌、雑歌と並んで”相聞”という部位がある。愛情を詠うもので、恋愛歌が主だ。愛とは自分の思いを押し付けるのではなく、相手の声に耳を傾け、互いの思いを察し合うものなのだ。今時のストーカーとは対極にある。
”耳を澄ます”ことは、受動的ではない。遥かなるものに能動的に触れ、直観することだ。それは取りも直さず自分の内と外の往還でもある。(日本経済新聞 明日への話題より)
これはニコラが田畑さんとの対談インタビューで語っていたこと、そのまんまです。「言葉や音の「間」(ハザマorマ)こそが最も重要で、その「間」に存在する静けさは、重力の音である。その静けさのクオリティーは多様性に溢れ、自分の内側の奥にその静けさを感じることが、安心安全な場を創るコトに繋がる」といった趣旨のコメントを残して、イタリアに戻って行きました。 Silent is Sound of Gravity.
このコラムでは、『全身を「耳」に集中して声を待っている』とありますが、似たような経験をニコヒロ時に行いました。その時は”声を出す”というコトでしたが、足裏から全身を通し声を出してみるという、一般的常識に捉われていると???となる内容。でも、確かに足裏から肚で増幅された声が出た感覚を記憶しています。まぁ大抵の人は「マジっ?」て思われるでしょうが、あくまで本人の感覚の問題なのでイマイチ信用ならない方、遠慮なく素通りしてください。
このコラム、何気に興味が湧きパクったわけですが「耳を澄ます」ことが受動的ではなく、能動的直観としてウチとソトの往還である。という結びに、吸い寄せられるかの如く惹きつけられた次第です。俳人って言うか、黛さんの素晴らしい感覚と、文章としてここまでわかりやすく丁寧に説明できるコト、羨ましく感じました。
春の声を聞くには、とてもいい時期です。コラムにもあるように、余計なコトに眼や耳を奪われぬよう、外に出て能動的に静けさを感じ取ることは、柄にもなく好いことの気がします。すべての生命が動き出す季節の春には、緑の静寂が訪れています。
音に限らず人間が所有する五感。それらすべての「間」に、第六感とも呼ばれる意識としての土台”ココロ”を傾けると、この惑星の森羅万象なる”在”は、貴方にも重力の音を聴かせてくれるでしょう。そうすりゃもっと、楽に生きること出来るんじゃないでしょうか。時、空、人。全ては、ハザマに存在する相互作用で、成り立っているんだろうね。
本日より春の土用。季節が入れ替わる時期の大地の変化、重力の音と併せて感じてみましょ。