立ち小便が好きだ。開放感ある大自然の片隅で、森羅万象なる一部として存在を主張する一つの手段として、私は立小便を推奨する。この行為は、すべての生物が避けることのできぬ生理現象の一つであるが、仁王立ちしたまま出来る霊長類ヒト科・オス特有の優越感を含めての宣言である。だからと言って女性蔑視をしているわけではないことを明確に表明したい。確かに女性であっても、訓練次第では可能であると勝手に想像はするが、そうした場面や訓練に遭遇した試しはないので、明言は避けよう。
そもそもこのマーキング自体しっかりと「動物が尿などの分泌物を利用し、縄張りを示す行動」と辞書では定義してある。太古の時代にはこうした行為の賜物で、ケモノとヒトの住み分けができていたのだろう。しかし昨今、里山より街へと降りてくるケモノ類などの被害が絶たないようだ。これは日本のみならず、世界中の地域で多々起こっているらしい。
そもそも、人間ありきで考えられる策に限界があるのではないだろうか。こうした生態系社会を勝手に築き上げた私たち人類が、一番の元凶であるのは何処の誰の眼で観ても、明らかだと感じる。そうして新たに問題定義をすることは素晴らしいことだと思うが、どうしてもその基軸が「経済活動」を中心とした考え方に沿っている気がしてならない。
確かにここまでの世の中になると、綺麗事だけでは済まされないのだろう。どうしても一筋縄にはいかないものだ。裏側に見え隠れする本音とメインストリーム的建前が胡散臭く感じ、偉そうな偽善に聞こえる度に反吐が出る。社会的ヒエラルキーはあからさまじゃないにしろ、どうしても大手資本や偉そうに見える輩に世論は流れている、もしくは流されている気がする。
そうして造られた街で生活し一生を終えるわけだが、その際にも理性に富んだ行動を余儀なくされるため、立ち小便は不法行為に分類され、ケモノとヒトの区分けがなされている。確かに、私も街中で堂々と立ち小便を行うほど理性を欠いてはいない。それに人工的街での縄張り意識に対し、一切渇望してはいない。そもそも街中でのマーキングは、全体性に欠けると感じているからだ。
全体的な生態系の多様化を考えれば、敢えて私らと違う種から観た視点の方が、もっと重要な気がする。ただしこの視点から考えて行くと、ほとんどの経済活動が抜け落ちてしまうのだろう。だってケモノは、経済活動なんてやらないから当たり前の話だ。それ故一部のヒトから見ると、偽善的に映るわけだ。まぁこれは、私自身の問題であるので、あくまで一つの意見である。いわゆる賢いと言われるヒト達は、なにやら奥の手を持っているのかもしれない。
最近知り合ったヒトで、突然自然農法をはじめそろそろ10年ほどになる若い挑戦者が居る。まだそこまで深い付き合いには至っていないので詳しくは知らないが、彼は以前まで全く違う生活(昔は都心での暮らし)尚且つ自然農という農薬を一切使わない面倒臭い農法で、お米を育てている。自然を相手に共存しながら生きる路を選んだのだ。彼は大都会での生活をやめ、大自然の中でただ生きるために考え、身体を動かしている。その姿もまた、マーキングとして後世に残っていくのではないかと感じた次第だ。
彼は、私のように立ち小便という手法で縄張り意識を解消するわけではなく、自分が生きるその”存在のみ”でこの世に足跡を残している気がする。自分で考え動く。言葉にすると簡単だが、これまで幾多の悩みや不安、絶望感。そして決断を繰り返してきたに違いない。生活ではなく、ただ生きるために。人類には全く無関心な大自然の中で、人間界に手の出せない領域を体感しながらこの世の理を学び、ここまで歩いてきたわけだ。
こうした生活を始めて「見えないモノを信じられるようになった」という様なコトを言っていたが、多分観えなかったものを、感じることが出来るようになったんだろうと勝手に思いながら、田植え後の余興(運転のためビールなし)として素晴らしい時間だったと感じた夜だった。新月の蛍。山の静けさに河のせせらぎ。そんな時、夜空を見上げながら立ち小便に立つ。肚に感覚を入れ出始めた瞬間、あのホッとした感覚は「存在する証」として漢達の1日の疲れを癒し、明日への活力へと変換される。これにて今日という時間は過ぎ去り、明日は明日の尿を出す。全ては循環である。